道場長のうんちく@      Aへ 


   ここでは、私が「無双直伝英信流・正統第二十二代宗家 (故)池田 隆 聖昴」先生より学びながら気が付いた事
   中心として書きたい。

   書き上げた後にでも、気がついたり、思い立った時に書き足すので話が相前後したり学ぶ深さがずれていたりしても
   ご愛嬌でごめんなさい。

   それに、私はまだ「正速強威」のうちの正すらまともに出来ていないかもしれないし、現在まで約17年にわたり真剣に
   学んできたが、自分の年(現在69歳)からすれば、これより先、強さスピードに関してはもはや伸びる要素が少ないと感
   じているからこそ、居合いの本質を見極めたいと思っているのです。

まず 無双直伝英信流 宗家 ですが、この世にこの無双直伝英信流宗家を名乗る人が複数居られることは事実です。

   何をもって宗家を名乗るか?なんですが、前宗家が誰を指名したかで決まるわけで、それ以外の理由は無いですね。
   俺が一番古い弟子だとか、我が一番上手だとか、或いはわしが一番弟子を数多く集めた、とかは別段意味を持たない。
   まして、戦後に設立された全日本居合道連盟は途中で何度か分裂の危機を迎えたが立派に歴然と輝いている。
   その連盟の存立の基礎を築いた第二十代宗家河野百錬さんから連綿と続く現宗家(福井 将人先生)に間違いありません。

無双直伝英信流は? じゃあその他の連盟の無双直伝英信流は?というとどうだろう?

   これはね、その皆様の「師」がどのようにお伝えされたかによって業前が違うのは当たり前で、我が道場でも諸先生それ
   ぞれ少しづつ違います。
   そもそも元は「口伝」であった訳で文字或いは図譜とされたのはもっぱら本最近なのですから。

   しかし、そこでですね宗家が生きてくるわけで、連綿と続く宗家としてはいわゆる流風を守り引き継ぐ事(伝承)が重要であり、
   気・剣・体の一致をどのように結ぶのかが重要に成る訳で、形や操法にのこる秘伝があることも事実であり、現代の剣士が
   静と動の中にそれを見極められるか?まあこのあたりが我が龍はの根本でしょうか?。

   我が流派にも傍系と呼ばれる派が有ります。第11代宗家大黒先生の折、谷村派(正統)と下村派(傍系)に分れたが我が
   ご宗家(22代)はいずれも無双直伝英信流に違いなく、研究上の違いと述べられています。

居合術ですが、

   連盟の受審問題第3問にありますが、日本刀の運用・身体の活用の言葉通り、いわゆる体裁き刀捌きにその本質がある
   ように思います。
   筋肉の力で振るとか手だけで振るとかはもっての他で、体捌き全体の円く流れる動きのなかに刀の直線運動(運用)が生じ
   るのが良いと思われる。
   さらに、これに目付けが加わり、調子(リズム)と強弱そして遅速の使い分け、無理と無駄の一切を省くと出来るか?
   本当はそこに、呼吸法が入ります。コレが実に難しい。丹田との兼ね合いがなんとも・・・。

   人間が行なう術なんだが、本当に微妙な呼吸や波をもっと動きに連動させるというのは至難の業なのです。
   極地に至るまでどれほどの鍛錬が必要か?

居合(道)がここに加わる。

   これがもっとも厳しい。現代人の感覚あるいは教育からは抜けている生死の分別というか、それとも如何に死ぬかを体現
   するのである。その真境を見ることである。

   丹田の鍛え方は色々論じられて居ますが、鍛え上げて相手(敵)が動けなくなるほどの気力を丹田から発する事が
   出来れば最高っと考える人が多いですが、丹田を(空)にする事が出来る人も居ます。そんな人と出会えばすでに
   勝負は負けなのです。コレが出来て多分「威」の位でしょうね。

いわゆる試斬道との違い

   中村某先生の書籍にもあるが、完璧な試し斬りであり、居合道とは隔世なほど違います。足を踏み込み腰を固定してほとんど
   上半身のみで刀を捌き「物を切る」だけに行なう業が(我々の)居合(居合道)と間違われるのは困ります。
   これも、歩を進めて擬態的に斬り下ろす業もあるが、その斬撃の直後のスキだらけは情けない。
   この場合その刀の切れ味を試す以外の理由があろうか?

初め

   さて、初めて居合道の道場の門を潜り、尋ね来る者を判断するのは靴の脱ぎ方から見られる。武道の根元の礼から始まる
   のです。いわゆる礼法からなんだが形だけで収まるものではない。神仏、場所あるいは道場に対する。上位者、先生
   に対する礼から、自らの居住まい佇まい、をそのとおり理解し(これが中々出来ない)そして座位にやっと進む。
  
   「龍が盤踞」する姿になるまで只座る。そして、呼吸目線居住まいの学びなのである。
   この座法なんだが、合気を深く理解されている友人が、この正しい座法を目にした時「ああ・・」と声を漏らした。
   曰く「間違いなく龍が顔を出しています」と。

稽古の前に

   教えを請う
て身に着くまで考え行なう事で単なる「練習」じゃない。教えを請うことは待つ事だけではない。
   自らを高めよう
としない者に教える事など無いと。そして、練習数に頼ってはなおいけない。

   まあ五段までは「首から上で刀を振れ」と云われたが、つまりは術理をしっかり考えて道理を得て稽古しないとご宗家がよく言
   われる「刀振り振り術」となってしまうのです。

   ご宗家は「教えをよく聞いて(見て)、本を読んで、よく考えて居合いをせよ」と教えておられます。求める姿が成長の根本なのです。

   道場に拠れば、稽古回数を週に2回以上し続けなければ「昇段」を取らせない処もあります。これは人間は知らず知らずに体が
   「楽」な方へ動いてしまうから
です。知らぬ間に体も頭も忘れる事が多いです。普段に身に着くようになるまで稽古です。だから、
   ずーっと覚えこます、これって一生続けなければなりません。

   私などが偉そうに何を言ってもたいした事は無いのですが、本当の武士とか志士とかの人達とは、まず「気」と「覚悟」がまったく
   違うのです。稽古を重ねると自覚します。それでも出来ないと思えばそれで終わりです。歯と心をくいしばって続けます。

演武会や講習会、審査会

   全日本居合道連盟の大会、地区連盟の大会、流派の大会 そして奉納演武会など大会はいくつも開かれます。
   私の所属する連盟には年に2回の個人段別選手権試合があります。今までに何度も参加しましたが、試合結果や判定結果に。
   「えーこれってどうして?」と思ってしまう結果もたくさんあります。複数名同時に演武する試合も、二人で赤白判定の試合もあり
   ますが、どうも私には解らない(理解できない)判定もままあります。でもそんなもんです、稽古の内です。先生の評価より
   もっと厳しい自分自身が足らない自分自身に「気づき」ます

   先生方は「勝つも負けるも時の運」とおっしゃいますが果たしてどうでしょうか?錬士あるいは七段以上になりますとこういう試合が
   無くなります。つまりは自分で考えて居合が出来るようになると試合は必要無いということです。
   
   私も盾、メダル、賞状をいくつか頂きましたが、「次も頑張ってもらうぜ!」と励みました。が、経験が増すと、試合はより一層稽古
   に励む(より高見を目指して稽古に頑張れと)叱咤激励するためのものでそれ以上のものではないことが解ります。
   
   弟子達には何か結果(メダルや賞状)を貰いたい願望が練習の後押しになるから良いですね。

   道場に入門すると、道場の稽古以外に参加を求められる行事がいくつかあることが判ります。いわゆる「親睦会」もそうですし、
   「講習会」や連盟や流派の演武会はもちろん、会誌の名刺交換の呼びかけや、他道場での研修会もあります。

   全てに参加せよとは申しませんが、「後世に居合道を伝承するを目的」とした活動に参加出来ることは自分の存在を自分
   で確かめる事が出来る行動だと考えて間違い有りません。

   つづく